Black Hawk

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偶然から始まったGT獲りの物語

 ブラックホークの物語は、ホテルのトイレにおける偶然から始まった。

 95年7月、米ケンタッキー州キーンランドのジュライセール。言うまでもなく、世界的な良血馬が多数出場することで知られる2歳馬のセリだ。調教師の国枝栄は馬主の安田修たちと購買目的で渡米していた。日本でセリ名簿を見て、目星をつけた馬がいた。ところが、その馬は獣医検査で出場停止になった。ご馳走に箸を伸ばした瞬間、引っ込められてしまったような気分。夜、暇を持て余していた彼らが宿泊先のヒルトンホテルのバーで飲んでいた時、ノーザンファーム代表の吉田勝巳、馬主の金子真人と鉢合わせする。

 「トイレに行ったら勝巳さんが入って来て連れションになった。『なにか買った?』、『うん、ヌレイエフの牡馬をね』、『誰がやるか決まってるの?』『まだだよ』『じゃあ、オレにやらせてよ』という感じでその場で話がまとまった。実物も見ていないで決めちゃったんだから、今考えるとラッキーとしかいいようがないね」

 ほんの数十秒足らずの会話で商談成立。もちろん吉田、金子と面識はあったが特に深い付き合いではなかった。たまたま、同じホテルに泊まっていたのが縁で国枝厩舎に行き先が決まったのである。

 父ヌレイエフは超一流の種牡馬。母シルヴァーレーンは仏GV勝ちがある。近親に芝12ハロンの世界レコード保持者としてジャパンCに出走したホークスターがいた。それなりに筋が通った血筋だが、ジュライセール出場馬の中では良血馬のうちに入らない。実際、その時のセリでは評判になってはいなかった。預かることが決まったものの、実物を見ていなかった国枝にはどんな馬なのかというイメージが、まったく沸かなかった。

 その年の10月。ノーザンファームで初めてブラックホークと対面した国枝は目を丸くした。外国産馬というと、一般的にアカ抜けした馬体か、ごつい体形の馬が多いものだが、どちらにも属さなかった。

 「冬毛が伸びていてね。ゴロンとした体つきをしていて、ぬいぐるみみたいな雰囲気だった。頭が大きくて短足気味。全体のバランス、見てくれはそんなにいい感じはしなかった。少なくともこれぞサラブレッドとか、走りそうだという印象は受けなかったね。腰がどうのこうのとかも聞いたし、順調に仕上がるかなという不安の方が先立ったよ」

 厩舎玄関にある国枝のデスクの上には管理馬ノートが1頭分ずつ、うず高く積み上げられている。ブラックホークの分は入厩から引退まで、4年半以上に及んだ競走生活の記録が2冊に記されていた。翌年11月14日。山元トレセン経由で入厩した。その頃にはいくらか競走馬らしい雰囲気を醸し出していたが、どことなくユーモラスな体形が大きく変わるものではない。それでも調教を開始すると、ひと味違う動きを披露し始める。

 「ウッドコースで楽に64秒台を出していたからね。オレの気持ちの中でも走るのかな?という感じはしていた。調教ではそれなりに動くし、馬主さんもある程度期待していた馬だし、社台との関係もあって岡部ジョッキーに頼んだんだ。でも、デビュー戦は単勝1.7倍に指示されたわけだけど、人気になりすぎだなという気がしていたよ」

 その新馬戦はポンとスタートを切ってハナを奪い、スローペースに持ち込んで逃げ切った。しかし、芝1600m1分39秒8の勝ちタイムは重馬場だったにしろ平凡。勝ちっぷりは楽だったが、取り立てて騒ぎたてるほどのインパクトは伝わってこなかった。国枝も「やっぱり走るんだなとは思ったが、褒めちぎるほどの内容でもなかったからね」と、この時点では将来性に関しては半信半疑だった。

 むしろ、マスコミの評価の方が先行していた。2戦目のセントポーリア賞でも当然のように1番人気になった。しかし、中団から差を詰めただけの3着に終わる。それでも評価は下がらない。左肩ハ行で春菜賞を取り消したあとの新潟のわらび賞も1番人気。勝てばNHKマイルCに間に合うという事情もあったが、クビ差の2着でご破算になった。思えばそのあたりから、勝負弱さがつきまとっていたのかもしれない。

 横山典との出会いが転機となった。初めてコンビを組んだ八重桜賞。6頭立てのマイル戦で予想されたとおりの超スローペースとなったが、4コーナー後方2番手から直線一気の末脚で突き抜けたのだ。推定上がり3ハロンが33秒9の爆発的な末脚。最初の騎乗法が、ラストランの安田記念の開き直りにつながるとは、この時点ではもちろん誰一人予想しえなかった。

 だが、勝負の神様は才能を素直に伸ばしてはくれない。続く駒草賞で予期せぬアクシデントが起きた。直線で前が壁になって出るに出られない。横山典は強引に前をこじ開けて外に持ち出して追い込んだ。ハナ差届かなかった。「嫌だな」という国枝の胸騒ぎが現実となった。自厩舎に戻った時は歩様はなんともなかったが、右前肢が少し腫れていた。

 第一の危機が訪れた。腱の断面図を撮ったエコー検査の結果、右前浅屈腱炎の疑いがあると診断された。ただ、断定されたわけではない。競走馬の診療技術も日進月歩である。この取材中、セントライト記念5着のマイネルバンガードが屈腱炎と診断されたエコー写真を見せてもたった。それには裏筋に熱を持った部分がブツブツと映っていて、素人目にも異常が分かる。ブラックホークの場合は周りより色が濃い部分がいくつかあったが、ボヤーッとしたもので疑陽性の域を出なかった。今の技術なら違っていたかもしれないが、その時点では「右前屈腱炎の疑いで6ヶ月の休養を要す」という診断が下りたのだ。

 いずれにしろ、その後のプランは白紙となった。「エコーがまだ精密じゃなかったからね。はっきり出たわけじゃないが、走ることは分かったから休ませた。結果的に早期発見がよかったんじゃないかな」。国枝は起きてしまったことは仕方がないと諦め、すぐノーザンファームに放牧に出した。

 思い悩むタイプの調教師が管理していたら恐らく、ブラックホークは大成できなかっただろう。彼の割り切りの早さはキャリアと関係があるかもしれない。国枝は競馬社会とは無縁の出身だ。厩舎に血縁関係はない。ただ、生まれが地方の笠松競馬がある岐阜県だから、中学生の時から競馬の話題をする、ませた同級生がいたという。その話に触発され、次第に競馬に興味を抱くようになった。

 「まだ昭和44、45年の頃だね。スピードシンボリとかアカネテンリュウとかの話を聞かされ、なんとなく興味を持ってテレビで競馬を見るようになった。ヒカルイマイが中京のきさらぎ賞を凄い追い込みで勝った印象は強烈だった。そしたら皐月賞、ダービーも勝ったからね。応援した馬が走るのもいいなと思って、高校の時から馬関係の獣医の仕事は頭にあった」という。

 東京農工大に進学したのも、獣医を目指したからだ。ところが、本人曰く「馬術はやったが勉強は全然しなかった。農水省に入るのは無理だろうから、どうしようかと思っていた」。そんな時、日大の馬術部にいて顔見知りだった高橋裕(現調教師)が先に八木沢勝美厩舎の調教助手として入り、彼から山崎彰義厩舎が調教助手を募集していると聞いた。ちょうど、美浦トレセンが開場する時で環境的には入りやすかった。渡りに舟。変わり身が早いというか、獣医を諦めその話に飛びついた。同じ大学から厩舎に入ったのは、現調教師の後藤由之とともに第一号である。

 厩舎に血縁関係がないことは時として弱味にもなれば強味にもなる。国枝にすれば、しがらみのない世界はやりやすかった。見る物、聞くことすべてが新鮮。素直に現実を直視し、受け入れることができた。入って10年目、3回目の受験で調教師試験に合格する。いうなら、この社会ではズブの素人からのたたき上げだ。逆に厩舎経営の上では、名門出身のプライドには無縁で、頭でっかちでなかったことがよかったのだろう。

 その中から「ホースマンとして理想論を語り合うことも必要だが、それ以前に我々にとって通信簿である成績が一番大事。毎日やっていることが成績に結びつかなければ何をやってもダメ」という現実的な考え方が自然と身についた。そのためにはどうすべきか?自分で判断がつかないところは専門家の意見を尊重する。それは恥じることではない。ブラックホークの場合、診療所の診断に素直に従い、優秀な獣医スタッフがいるノーザンファームに放牧に出したことが正解だった。

 帰厩したブラックホークは、休養前よりひと回り大きく成長していた。脚部不安再発のリスクを軽減するため、従来のウッドコース調教から坂路に切り替えた。復帰戦となった京都の宇治川特別は4着だったが、そこから破竹の快進撃が始まった。横山典とのコンビに戻って春光賞、ブラッドストーンSを連勝。岡部に乗り替わったダービー卿CTは好位からアッサリ抜け出し、厩舎に開業初重賞をプレゼントした。騎手を選ばない。展開を問わない。国枝はちょっとばかり天狗になった。

 「3連勝で改めて見直した。オレの馬って凄くなったんだなと思ったね。この勢いなら次の京王杯SCも勝てると自信を持った。タイキシャトルが強いのは知っていたが、相手は休み明け。こっちはトントントンと来て勢いがあった。デキからいっても使っている強みからいっても、安田記念はともかく今回は負かせると意気込んだんだけどね」

 天狗の鼻はポッキリとへし折られてしまった。タイキシャトルのレコード勝ちの前にグーの音も出ない3着。格の違いをまざまざと見せつけられてしまう。国枝は「まったく競馬をさせてもらえなかった。あれはとんでもねえ馬だ」と、苦笑いするしかなかった。

 それでもギブアップしたわけではない。安田記念。どしゃぶりの雨が味方についた、と思った。「ウチのは馬車馬みたいだから道悪は上手いはず。なんとかなるんじゃないか」。そんな淡い期待は木っ端微塵に打ち砕かれる。道悪に能力を殺されたのはブラックホークの方だった。「ウチのがノメりっぱなしなのにシャトルだけはスイスイ走っていた。明らかに格段の差がある。あの馬が外国に行ってくれない限りGTを勝てない」と、力の差を痛感させられただけに終わる。

 ショックに追い打ちをかける出来事が起きた。秋に備えて山元トレセンに放牧。戻ってきた時、裏筋がモヤッとした。第二の危機である。すぐにエコー検査を行ったが、この時もはっきりした診断は出なかった。「腫れっぽいんでエコーをかけた。そしたら見る人によって見解が違うんだよ。診療所ではこれはマズイ兆候だっていう。開業の獣医さんは大丈夫と言ってくれたんだが、我慢してもう1回放牧に出した」。再度の放牧。そして戻ったら今度は副管骨を骨折し都合、1年2ヶ月も戦列を離れる憂き目に遭った。

 その間、新しい勢力がどんどん台頭してきている。国枝はブラックホークが浦島太郎になっているのではないか、と心配した。「骨折そのものは能力には影響しない。でも、馬というのは競馬を使うことによって強くなるところがあるからね。ブランクが長くなると、かつての力を出せない馬も往々にしている。気持ちの中で、それだけ長く休んだあとだから大丈夫だろうかという不安の方が大きかった」。どちらかといえば、外国産馬には早熟な馬が多い。このまま終わってしまうのでは、と考えるのも無理からぬものだった。

 ところが、ブラックホークは信じられない打たれ強さを発揮する。麦が踏まれて強くなるように、危機を乗り越えるたびに逞しくなった。復帰戦に決まった関屋記念に向けての調教過程で、国枝は我が目を疑ったほどだ。「あのクソ暑い中で調教しても元気いっぱいだった。他の牡馬は暑さにフーフーいってるのに1頭だけうなりを上げていた。34秒台を連発して、とにかく元気がよかったよな。大した馬だなと思ったね」。レースはリワードニンファの日本レコード駆けの前に2着だったが、復活への確かな手ごたえをつかんだ。

 続く京成杯AHは、これぞ負けて強しの内容だった。いつにないロケットスタート。それが裏目に出た。他馬にこすられたためにムキになり、ハミがかかってしまう。普通なら抑えるところでガンガン行ったのが大誤算。4コーナーで突き放しにかかったが、前半の無理がたたり坂上で失速する。それでもハナ、クビ差の3着だ。国枝は「ゲートをドンと出たのがねえ。フワッとなるところがなかったし、4コーナーでもスポーンと動いちゃった。無理があったな。でも、負けたのは残念だが強い内容だ」と、自信を深めた。

 スワンSは楽勝だった。再び蛯名とのコンビ。1400メートルとしてはスローな流れになったが道中は折り合いに専念し、上がり33秒6の破壊力で突き抜け、今イチ末が甘いというイメージを一新してみせた。

 大目標のマイルCSに向け、ブラックホークは順調に仕上がっていた。国枝は隣の伊藤正徳厩舎のエアジハードに相手を絞っていた。相手は安田記念でグラスワンダーを破り、秋初戦の天皇賞でも掛かり気味に行きながら小差3着。実績を比較したらかなわない。それでも今の充実ぶりと勢いなら勝負になるはずだ。そうシュミレートする。

 だが、やはりGTの壁は厚かった。偶然、空いていた武豊に依頼。万全を期して臨んだが、攻守ところを替えた蛯名騎乗のエアジハードに格好の目標とされてしまう。直線でひと足早く抜け出した瞬間、待ってましたとばかりエアジハードが外から襲いかかる。抵抗するどころか、最後方から強襲したキングヘイローにも差し込まれて3着。2度目のGTも最善を尽くしながら遠のいた。

 「今回はなんとかと思ったんだけどねえ。エアジハードは違ってた。ダテにグラスワンダーを負かしちゃいないことが分かった。正義(蛯名)がウチのに狙いをつけて勝負どころでマクッたら、まるで勢いが違ったよ。マイルが一番適性があると思っていたが、この距離じゃどう乗ってもかなわないだろうな」。出るのはため息ばかりなり。

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